私は当然、生命は混乱の縁から生まれるという進化論の主張を熟知していたはずなので、これは私にとつて信じられない不注意による見逃しであった。
ここに私が提示する枠組みは私の以前の組み立ての誤りを正そうとするものである。
さて、ここでいよいよ私が前に持ち出したカギとなる重要な問題、すなわちほぼ均衡に近い状況と均衡からほど遠い状況とを区別するものはなにか、に立ち戻ることにしよう。
ブーム・バストの連鎖関係ないしその他の不均衡の過程が開かれた社会のほぼ均衡に近い状況を破壊してしまうのはどんなときであろうか。
われわれは思考と現実の間に双方向に働く相互作用が、硬直化と混乱の両方向で極端な状況を簡単に招いてしまうことをみてきた。
開かれた社会が存在していくには、参加者の思考があまりにも現実から遠くかけ離れてしまわないようにする、錨のようなものがなくてはならない。
その錨とはなんであろうか。
この問いに答えるには、われわれはまず期待と価値とをはっきり区別する必要がある。
つまるところ、人々の決断は彼らの現実認識によるばかりではなく、彼らの価値観にもよるからである。
期待の場合は、錨がなんであるかを特定するのはやさしい。
それは現実そのものだからである。
人々が思考と現実の間に開きのあることを理解している限り、さまざまな事実が彼らの期待の当否を判断するための基準になってくれる。
相互作用のために事態を予測することがむずかしくなるかもしれないが、事態はひとたび発生してしまえば、その独特な性格が確定してくるので、それをわれわれの予測が正しかったかどうかの判定材料に使うことができる。
静的不均衡の状況のもとでは、思考と現実とは互いに遠くかけ離れており、ともに近づこうとする気配はまったく示さない。
閉ざされた社会では、期待が現実に錨をおろすことはありえない。
なぜなら、公式な教条主義から逸脱する期待は口にすることさえ許されないからである。
公式に認められた現実の解釈と事実の間にギャップがあり、そのギャップを取り除くと大きな安堵感と開放感をもたらすことになる。
動的不均衡の状況のもとでは、これとは正反対のことが発生する。
事態の成り行きがあまりにも激しく変化するので、人々の理解がこれについていけず、思考と現実の間のギャップが表面に出てくる。
事態の解釈は事態のペースの速さについていけないのだから、人々は分別を失い、事態も手がつけられない動きになる。
このため、現実はもはや期待に対する錨の役目を果たせなくなってしまう。
これこそソヴィエト体制の解体過程で実際に起こったことである。
第七章で詳述するが、私はグローバル資本主義システムもいまや動的不均衡の時代に突入したものと信じている。
しかし、その前にわれわれは開かれた社会にとつて、期待に代わって錨の役割を果たしてくれるなんらかの基準を求めねばならない。
その錨とは倫理的、道徳的価値観である。
われわれはほぼ均衡に近い状況と不均衡の状況の間では、価値観の役割に違いのあることを見抜けるだろうか。
この点について私の立場は主観的な理由からも、客観的な理由からもいささか心もとないものになってくる。
したがって私の議論はここではやや暫定的である。
主観的な観点についてはすでに述べたように、私はまずエコノミストとして育てられ、市場の価値が他の既存分野である社会的、政治的、個人的な面での諸決定を導く価値観とどう関連するのかを探り出そうと、これまでずっと格闘してきた。
私はほんとうに途方に暮れることがしばしばであり、この点では私ひとりが例外ではないと思う。
現代社会では、価値観一般について、とりわけ市場の価値と社会的な価値との相関関係について大きな混乱があるように思われる。
このため主観的な難問は客観的な難問といっしょになってしまう。
そこでこの問題の本質を、まず理論の面から、ついで実際の面から、私なりに論じてみたい。
理論の面では、認識には客観的な基準、すなわち現実があり、それによって判断を下すことができる。
すでにみてきたように、この基準は完全に独立したものではないが、それでも客観的と呼んでいいほど十分な独立性を備えている。
参加者のだれひとりとして自分の意のままに事態を動かすことはできない。
これとは対照的に、価値というものは現実と一致するとは考えられないので、客観的基準によって判断を下すことはできない。
判断を下すための基準は価値そのものの中に内包されているのである。
価値は現実によって制約されることがないので、その変化は認識的なものの考え方の変化より範囲がずっと広くなる。
価値についてのいかなる議論もむずかしくなるのはこのためである。
経済理論が価値を所与のものとしたのは賢い方法だった。
この方法論的な手段の助けを借りて、経済理論は均衡の概念を確立した。
私はこの概念には批判的な立場をとつてきたとはいえ、私の分析にはこの概念は欠くべからざるものである。
均衡からほど遠い状況がなぜ金融市場で発生しうるかを私が説明できたのは、現実からかけ離れがちな均衡という概念が十分に発達していたからにほかならない。
社会の非市場(ノン・マーケット)の分野では、これと似た概念はどこにも見あたらない。
実際の面に目を向けると、現代社会には社会的価値というものが極度に不足しているように思われる。
もちろん、歴史上いつの時代でも、人々は道徳の低下を嘆いてきた。
しかし、現代をそれ以前と異なるものにしている要素がひとつある。
それは市場価値の驚くべき浸透である。
今日の市場価値は、それまで市場外の要件によって支配されてきた多くの社会分野にまで広がっている。
たとえば、個人的な関係や政治、それに法律、医療などの職種がすぐに頭に浮かんでくる。
また市場メカニズムが動くその動き方にも、微妙で穏やかではあるが、それでいて重要な変化が起こりつつある。
まず第一に、長期にわたって築き上げられた関係が、今や一発勝負の取引にとつて代わられている。
店主と顧客が顔見知りであった雑貨屋はスーパーマーケットや、ごく最近ではインターネットの軍門に下ってしまった。
第二に、個々の国の経済も国際的な経済によってその座を奪われつつあるが、国際社会がいま存在する限りでは、まだほとんど共通の社会的価値を持っていない。
永続的な関係が個別取引だけの関係によって取って代わられるという状況は、現在も進行中の歴史的過程であり、その論理的結末にまで突き進むことは決してありえないにしても、現在すでにかなりのところまで進んでいる。
少なくとも、私が一九六○年代の前半、初めてアメリカにやってきて、この問題について考え始めた時よりは格段に進んでいる。
私がイギリスから移ってきてまず驚いたことは、他人との関係を築き上げるにしてもその関係を破棄するにしても、アメリカの方がはるかにやさしいということであった。
この傾向は当時より現在の方がさらに大きく進んでいる。
現在でも結婚や家族はある。
しかしたとえば投資銀行業界では、個別取引がほとんど完全に親密な取引関係に取って代わってしまった。
投資銀行のケースは、今日、他の多くの社会的組織の中で起こりつつある変化を最も明白に示す例である。
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